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熊野古道(小辺路、小雲取越、大雲取越)を歩く

2012年5月下旬    投稿:本田武

熊野古道とは、熊野三山への参詣道のことで、熊野詣は10世紀から15世紀にかけて盛んに行われたらしい。

大きく分けて6つのルートがあるが、今回は2ルートに絞って歩いた。

●小辺路(こへち)は高野山と熊野本宮大社までの70km程度の道だが、途中では標高1,000m以上の峠を3度も越えなければならず、熊野参詣道の中でも険しい経路の一つである。中世には参詣者や商人が主として利用したとされている。

●大雲取越、小雲取越は那智から熊野本宮まで30km程度のルートであるが、一気に800m登る峠越をするのでやはり険しい経路である。

 昨年10月に行く予定だったが、122年ぶりの大災害があり、通行不能な箇所ができ行けなかった。4月に入って通行可能になったので、気候の良いこの時期に行って来た。

 

1.5月21日(月)高野山(9.30)→ 大股(16.30 16.8km

宿泊した寺の朝6時からの勤行に参加し、7時30分、待望の金環触を見て、金剛峯寺に参詣し、いよいよ熊野古道に出発だ。

はじめのうちは、ピンクや白のクリンソウの咲く中を歩き、夫婦合わせて140才も順調な滑り出しだった。やがて、びゅんびゅん車の走るスカイラインとアスファルト舗装の林道を歩くうち、家内は体調が悪くなり、今後の古道歩きは様子をみることにした。

宿泊は民宿かわらび荘だったが、主人が野迫川温泉が近いので、行くなら送り迎えしてくれると言うので、お願いした。他の客は小辺路では、唯一出会ったAさんだけだった。

 

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5月22日(火)大股(7.40)→ 五百瀬(14.35 15.9km

伯母子峠を目指して、新緑の中、ただ黙々と歩いた。途中、台風で崩壊した箇所があり、急拵えの迂回路を歩いた。この辺はさして危険とは思えなかった。

時間もかからなかったので、伯母子岳に登った。頂上は広場になっていて、新緑と山つつじが目に痛くなるほど鮮やかだった。360度の大峯の山々を独り占めにし、このまま去るのも、もったいないと思い、早いが昼食を食べた。

峠に下りると山小屋があった。その後は旅籠跡、茶屋跡などあったが表示板のみである。案内書にも、「道が狭く左が崖になっている」とあったが、確かに法面に狭い通路があり、傾斜しているので、スリップしたらおしまいとしばらく怖い思いをした。

農家民宿政所に着いたら、事実、数年前にフランスの女性が滑落したと聞かされた。

前の宿のかわらび荘からその人が夕方5時半ごろ、着くはずという連絡を受けていたので何度も迎えに出たが、一向に来ないので、夜10時に警察に連絡し、消防団をふくめ、山狩りをしたが見つからなかった。翌日朝10時ごろ、一人の人に付き添われて下りてくるのを発見された。大きなリュックサックを持って宿を出たそうだが、何も持たず、服がボロボロで、ずぶぬれだったそうだ。

その日もまた同宿はAさんと二人だけだった。

 

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5月23日(水)五百瀬(8.45)→ 十津川温泉(14.40) 19.2km

1時間ほど登った所に三十丁水という水飲場があり、「山道はむりをしない。五百瀬小学校」という表示板があった。この学校は6年前に廃校になったと前日聞いていた。

みんな今どうしているのかと思うと同時に、その頃、僕はキリマンジャロに行ったが、登山口近くの村の子供たちに「ボレボレで行くんだよ」と言われたのを思い出した。

下から登って来て2時間もたたない内に三浦峠に着いた。

林道があり、伐採した材木をトラックが運んでいた。すっかり下が見通せた。

下方に昨日泊った十津川の部落が見えた。崖崩れが多数あったのがよくわかる。

122年前、今回の台風同様の大惨事があり、2600人が北海道に集団移住したそうだ。大阪に出るのに皆いずれかの峠に登り、故郷に別れを告げた筈だ。

西中バス停まで下りると、十津川温泉まで川沿いの国道を10km歩かねばならなかった。

丁度半分ぐらい歩いたところに郵便局があった。

客は誰もいなくひまそうなので入ったら、まず十津川村の郵便局のマップをくれた。

十津川村の面積は東京都のより広いそうだが、郵便局は7つ、ちりばめてあった。

それに比し、学校は、廃校が多く、小学校、中学校は各4校である。

「全特」の集票力の大きさを知らされた。

隣の局の局長が撮ったという写真も5枚くれた。

さらに国道を進んでいくと、工事現場に出くわした。122年前の豪雨で出来た堰止め湖が今回の台風で壊れ、道路を破壊したとの事である。

 

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5月24日(木)十津川温泉(7.30)→ 熊野本宮大社(15.4515.0km

石段を丁度1時間登って行くと果無集落に着いた。

ここでは、十津川村のポスターになっているおばあさんの写真を撮りたかった。

丁度通りかかったら、おばあさんが納屋に入るところだった。早速お願いして1枚のポスターと同様縁側に座ってもらい写真を撮らせてもらった。

年は88才で目も耳もいいそうだ。畑仕事が大好きで、これから、トウモロコシをまくそうだ。息子さんと2人ぐらしで、すぐそばの道にはマイクロバスもくるので、何も問題ないとのことだ。

「世界遺産の石碑周辺には花も植えられ、桃源郷のようだ。

 

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果無峠は結構高いので展望を期待していたが、周辺は木に囲まれ見通しが利かない。

どんどん下って行くと本宮の町が見えてきた。  

今回の豪雨で、熊野本宮大社の長い石段の下から10段まで水没したとのこと。当然、周辺の家は2階まで水に浸かったそうだ。

どんどん下って行くと本宮の町が見えてきた。  

熊野三山は、勝利に導く神の使いと言われる3本足の「ヤタガラス」が売り物で、サッカーの日本代表チームのユニホームにも付けられている。

もう一つは「再生」が、かなえられるとも言われている。

そこで、最近、祈願に来たわけあり政治家もいたそうだ。

4日間の小辺路歩きも無事終わったが、道中、誰とも会わなかった。

 

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5月25日(金)小雲取越  熊野本宮(8.00)→ 小口(13.3014.0km

小辺路に比べると、道幅も広く、なだらかで、ハイキング気分になれた。

1時間40分で、「百聞ぐら」に着いた。ぐらとは高い崖のことだそうだ。

果無山脈から大塔山系、熊野3600峰が一望できる。

熊野川村のポスターにはここの夕景が出ているが、後にこの日の宿でその写真を見せてもらい、コピーしてきた。

藤原定家は「感涙禁じ難し」と記しているそうだが、ひょっとするとここかもしれない。

歩いて来た方角を眺め、感慨に耽っていると、1組のカップルが来た。歩き始めて5日目にして道中で初めて人と会った。

 

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その後は、斎藤茂吉、長塚 節 他のたくさんの歌碑を楽しみながら歩いた。

「どちらへも遠き山路やおそ桜」という句が印象的だった。

なんと、宿に着いたら、熊野本宮で帰ると言っていたAさんがやってきた。

全行程6泊のうち3泊が2人だけの同宿だった。今日は3人と会った。

 

6.5月28日(土)大雲取越 小口(7.00)→ 熊野那智大社(14.00)  14.5km

石段のある急な坂を一気に越前峠まで800m登るのできつい。越前峠の30分ぐらい前の所に胴切坂という急登がある。そこに、厚手のフリース、サンダル、観光資料、大きな袋が置いてあった。荷を軽くするため捨てて行ったものと思う。

越前峠から200m程度下って、又、石倉峠まで登りである。

このコースは反対から来るのが本来で、地図をみても反対から来る方が優しそうに思えるが、反対方向か

ら来た藤原定家が「雲取紫峰は手を立つるが如し」と言ったのがわからない。 手の平を立てたように急

坂ということのようである。

この後は尾根道で楽だが、石段が苔むしていて、滑りやすいので、十分注意した。

色川辻から舟見茶屋跡まで、登りになり、亡者の出会いを通る。

山で飢えて死んだ者が「ダル」と呼ばれる悪霊となって峠を越える旅人に取りついたと言い伝えがあるそうだが、現在はすぐ下を林道が走っていて、こわい場所ではない。

舟見茶屋跡からは串本の辺まで一望できるようだが、霞みがかかって、見えなかった。

那智大社まで下り一辺倒で、無事到着し、滝をみて6日間の旅を終えた。

昨年の台風12号の影響もあるのか、出会ったのは小雲取越で3人、大雲取越で2人計5人だけだった。

 

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 災害は現地でないとわからないと言われるが、今回も、故郷を去った人も多いと聞いた。

 復興はとても3年では無理で10年は、かかるだろうと言われている。

 

 

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