投稿文 21
『 望郷旅行 〜 瀋陽 』その1
加藤弘親 72才
平成20年9月 横浜
私は東京/板橋の生まれだが、幼い頃家庭の事情から満州国「奉天」(現在の中国/瀋陽)に移り住んだ。満5才のことである。 この位の幼少期の出来事・光景でも、人によってはかなり鮮明に覚えているらしいが、残念ながら 私はほとんど何も覚えていない。
それでも、小学校に上がった頃からは、断片的ではあるが楽しかった事や恐ろしい目に会った事などいろいろ思い出が蘇って来る。 当時の「奉天」は、満洲国第二の都会(第一は、首都「新京」(現、長春)だったらしい)で、しかも住んでいた場所が奉天駅にも近い市街地の中心部だったこともあって、周りには日本人も多く、日常生活は日本語、学校も日本人だけの国民学校・・ということで、子供心には外国で暮らしている・・といったような違和感や不自由感は、あまり無かったような気がする。 子供の世界には、大抵昔から近所にガキ大将がいたものだが、私共の群れにも年長組のガキ大将(ずいぶん大きなお兄ちゃん・・と思っていたが、今から思えば精々4〜5年生位の悪ガキだった筈)がいて、私共チビ集団を引き連れてはあちらこちらに出没して、大人に怒られそうないたずらや遊びなどをしたものだ。 例えば、悪童共が連れ立って、直ぐ近くのシティ・ホテルに侵入し、「悪漢・探偵ごっこ」と称して、追い掛ける探偵・逃げる悪漢のふた手に分かれてホテル内を駆け廻り、夢中になってロビーの応接ソファーの陰に隠れて探偵の目から逃れたりしている内に、今度は本物のホテル・ボーイに見付かって、それこそ本気で逃げ回ったり・・したものだ。 或いは、少し遠くまで足を運んだ処に大きな医科大学のキャンパスがあったので、悪童共が軍隊行進して構内にまで入り込み、中庭に作られていた相撲の土俵で(何故か?立派な四方柱と屋根も付いていたような記憶がある・・)勝手に「悪ガキ大相撲大会」などをやったような思い出もある。 通う学校(国民学校)では、勿論「内地」(=日本)と同じ内容の授業を日本語で習う訳で、上級生になると現地語(満州語=中国語)も習うことになっていたらしいが、生憎く昭和20年、小学校3年生の時に終戦となり、翌年4年生の夏に、5年間過ごした奉天を去って日本に引き揚げて来たので、結局、満州語は覚えずじまいで終わってしまった。残念・・・! さて、前置きはこの位にして、そんな事情なので以前より「その内に、もう一度、懐かしの我が街/奉天(瀋陽)を訪れて見たい・・」と願っていた処、偶々旅行会社のツアーで「瀋陽・大連、4泊5日間」(瀋陽3泊・大連1泊)というコースを見付けたので、早速これを申し込み、念願叶って 昨年夏に出掛けて来た。 (以降、「奉天」と書かずに「瀋陽」で統一する) 通常の観光旅行では、上海・北京などの定番コースが多く、瀋陽が組み込まれていても高々1日位で次の観光地へ・・という塩梅だが、私の場合は観光が目的でなくて、自分の育った街をじっくり辿って見たい・・とする、所謂「望郷旅行」なので、この瀋陽3泊という企画には喜んで飛び付いた。 さて、家内に同行を求めた処、どうも女性にとっては「中国旅行」となると一寸身が引けてしまうらしい。 前述の上海・北京などならばいざ知れず、東北地方の「遼寧省/瀋陽」ともなれば おトイレ事情もどの位なのか?(中国には、大変失礼な話だが)という心配もあって、結局「あなた一人でどうぞ・・」ということになってしまった。 幸い、その後、王友会仲間の田畑靖夫さんから「ラスト・エンペラー(溥儀)や西太后の歴史に興味あるので、同行を・・」との申し出があって、「望郷の念」の小生と「歴史探訪」の 田畑さんとの二人旅と相成った。 平成19年8月26日/成田発、3時間半のフライトで「瀋陽空港」に到着。添乗員ナシのツアーだったので、現地ガイドが旗を持って我々を出迎えてくれたが、嬉しいことに、このガイドさんが、また妙齢のお嬢さん・・! 成田を出発する時から今回のコースの応募者は我々二人だけ・・と承知はしていたが、どうせ現地では別のツアー会社のお客と混載で処遇される位に覚悟していたにも拘わらず、お迎えのワゴン車に乗ったのも我々二人だけで、瀋陽3日間は、結局この美人ガイドと運転手の二人が、我々二人だけのお供をしてくれたことになる。 前にも触れたように、観光目的のお客様は「瀋陽」だけで3日間というようなコースはあまり選ばない・・ということか。
因みに、このガイドさんは、瀋陽の大学で日本語学科を卒業した後、現地の旅行会社に勤めている「ヒョウ・タン」さん というお嬢さんで、まずまずのレベルの日本語で案内やお世話をしてくれて、我々は安いツアーにも拘わらず、「まるで、秘書を連れての贅沢旅行みたい・・」と喜ぶこと、頻り・・。 観光が目的ではない・・と言いながら、結局の処、到着の日の半日と翌日の丸一日は、所定の観光コース巡りを楽しんだのであるが、そちらの事は、後刻少し触れることにして、先ずは主目的である「ふるさとを訪ねて・・」から話を始めることにしよう・・・ 瀋陽3日目は、自由行動の日。 同行の田畑さんは、オプション・ツアーで近郊の風光明媚な観光地(鞍山、他)に出掛け、私一人だけが、昔住んでいた街角を徘徊することになる。 事前にインターネットで調べて、昔の「奉天」時代の市街地図と、現在の「瀋陽」駅周辺の地図を用意していたのだが、偶然なことに、今回のツアーで準備してくれていたホテルが、何と私が訪ねたかった昔の街角と、ほとんど同じ場所ではないか・・! 即ち、私たちの住まい(アパート)は、比較的奉天駅(瀋陽駅)に近い繁華街通り「春日町」の直ぐ裏側だった筈なのだが、今回の宿泊ホテル「トレーダーズ・ホテル」は、その春日町(=現在の「大原街」で、今も有数の繁華街)の入口角にあったのだ・・!
さて、当日の朝、かすかな期待を胸に秘めつつホテルを出て、新旧の地図を見比べながら「大原街」から一本裏側の道を辿っていくも、頭の中で描く当時のそれらしき建物・光景は、全く見当たらず・・! 無理もないことで、繁華街「大原街」(旧「春日町」)は立派なビルディングが立ち並ぶ商店街に生まれ変わっており(近々伊勢丹も進出するらしく、工事中のビル現場に「伊勢丹ISETAN」と大きな標識が出ていた)、周辺一帯が再開発されていた。勿論、子供の頃、中に潜り込んで遊んだ近くのシティ・ホテルも跡形もなかった。 それにしても、この「大原街」の賑やかな人出は、一体何なのだ・・? 9時半頃にホテルを出て「探索」を始めたというのに、もうこの時間帯から(しかも平日で)ビルの商店や街路に並ぶ屋台で賑々しく、若いアベック?らしいカップルも含めて、大勢の人達が往来している。 因みに、この「大原街」の真下には、地下二階で数百メートルにも及ぶウナギの寝床のような地下商店街が展開しており、まるで原宿「竹下通り」か 浅草「仲見世通り」のような小区画のお店がずらりと軒を連ねていた。(ファッションが中心だが、靴・かばん、化粧品、それに食事処のような場所も含めて「何でもあり・・」の様相) もうこの時点で、昔のアパート跡の追跡は諦めて、次に同じく子供の頃通った国民学校「春日小学校」の跡?を目指すことにした。 こちらは、昔の地図にもはっきり「春日小学校」と記載されており、新旧の地図を対比すれば、比較的容易に辿りつけるものと考えて、昔の事を思い出しながら「大原街」(=「春日町」の通り)を先に進み、瀋陽駅から放射状に延びている大通り「中山道」(旧、「浪速通り」)を越えて間もない場所まで足を運んだが、こちらも目指す「小学校」らしきものはナシ・・! この辺の一帯は「大原街」繁華街ほどのビル群ではないが、それでも新しいビルも立ち並び、一部古びた「公団住宅」風の大型アパートらしき建物も見受けられたが、「小学校」跡地にはほど遠い光景だ。 結局、わずか 1〜2時間の散策ではあったが、昔の「奉天生活」のルーツを探る今回の旅は、これで見事に「不発」のまま終わった訳である。だがしかし、自分の眼で見、自分の足で確かめたことで、今まで胸の中でもやもやとしていた「ノスタルジー」に区切りがついて、納得することが出来た。 このように「望郷」に一応の“けじめ”を付けたので、あと残り半日は、半分は思い出散歩、半分は観光気分で、テクテクと「中山道」(前述の通り、瀋陽駅から延びている大通り)から、その突き当りに位置する「中山広場」(旧、「奉天大広場」)あたりまで徘徊を続けた。 この「中山道」の道沿いや「中山広場」ロータリーの周辺には、満州時代からの建物が結構多く残っており、中でも「中山広場」ロータリーを囲む建物群は、ほとんど当時のものが、今でも現役として活躍している。 たとえば、「遼寧賓館(ホテル)」は、旧「奉天ヤマトホテル」で、当時から日本からの皇族や有名政財界のお歴々が利用した由緒ある場所。 同様に、「瀋陽市公安局」(旧、奉天警察署)、「招商銀行」(旧、奉天三井ビル)、「華夏銀行/瀋陽分行」(旧、朝鮮銀行/奉天支店)、「瀋陽市総工会」(旧、東洋拓殖会社/奉天支店)・・と言った塩梅で、「遼寧賓館(ホテル)」の街路を挟んだ隣の「中国工商業銀行」などは、「旧、横浜正金銀行/奉天支店跡」として瀋陽市文化遺産に指定されていた。
尚、このロータリーの中央には、昔は「日露戦争勝利記念碑」が建っていたそうだが、現在は大勢の人民軍や民衆を率いた「毛沢東」像が、天高く手を掲げて辺りを睥睨していた。 この「中山広場」のすぐ傍に「中国医科大学/付属病院」があり、此処が子供の頃中庭に潜り込んで相撲を取った・・という思い出の場所である。現在でもこの地域の中核的な医療施設らしく、野次馬根性で病院内部にまで入って病棟の廊下を歩いて見ると、各種医療科目の診察室の他、レントゲン室やエコー室等さまざまな検査室も完備されているらしく、どこも多くの患者達ですっかり混んでいた。建物内部のみならず、正面玄関前の屋外広場の隅々にも大勢の人達が三々五々たむろして、一見のんびりと談笑しているようにも見受けられたが、これらも多分診察順番待ちの患者達なのか? 昔遊んだ中庭やグラウンドなどはどの辺だったか・・?と、大分中まで入って見たが、今は新しい病棟(立派な高い建物)が林立していて、中庭らしい空間などは、とうとう見付ける事が出来なかった。 この後、「中山広場」から再び宿泊ホテルのある「大原街」(旧「春日町」)の方に戻りながら、ついでにそこを行き過ぎて、「瀋陽駅」(旧、奉天駅)まで歩を進めた。 「瀋陽駅」は、1910年(明治43年)に日本の「東京駅」を真似て作ったそうで、赤レンガを主体にした外観は本当に東京駅にそっくり・・の印象である。 駅舎の中にも入って、一階の切符売り場を覘いた後、エスカレーターで二階にまで上がって、待合室やプラットホームの様子など人々の往来の様子をじっくりと眺めて来た。 |