投稿文23
昭和33年、王子製紙春日井工場で起きたストライキについて
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この原稿は、関屋元雄が主筆し、それを前田敏雄氏が、生前チエックしたものです。
その1
王子製紙のストライキは、昭和33年(西暦1958年)に発生した。今から47年前の事、当時、王子製紙には、苫小牧工場( 王子製紙労働組合(当時上部団体の総評に加盟)によるストライキは、両工場で行われたのである。規模的には、苫小牧工場の方が春日井工場より大きく、スト開始後、苫小牧工場のストライキの模様は、テレビのニュースで連日、放映されていた。一部では、揶揄されて殿様ストライキと報じている向きもあった。当時、王子製紙の工場の社宅には出回ったばかりで、ぜいたく品と言われていたテレビのアンテナが林立していたからである。 何故、ストライキが行われたのかについては、別に出版物が多々あるので、それに譲る事にし、ここでは、省略する事にして、僕が応援を頼まれた春日井工場の当時のストライキの様子について記述する事にする。その時の体験者が、高齢となり、物故者も多くなり、段段少なくなって来ている事でもあり、思い出すままに、その時の事を書く事にした。 僕は、昭和30年4月、王子製紙に入社し、昭和33年のストライキ時には、経理部計理課に勤務していた。入社と同時に、自動的に王子製紙労働組合本社支部員(所謂:通称:王労又は旧労)になったのだが、スト当時は、同労組を脱退して、王子製紙本社新労働組合(所謂:通称:新労。上部団体は全労)に加入していた。即ち、新たにストライキ中に発足したばかりの本社新労の組合員であった。同様に、春日井工場では、王子製紙労働組合春日井支部から脱退した人達で王子製紙春日井新労働組合が結成発足したし、苫小牧工場では、王子製紙労働組合苫小牧支部から脱退した者が、王子製紙苫小牧新労働組合を結成し、発足させていた。その3組合をまとめていたのが、王子製紙新労働組合連合会であった。 俗に、旧労組は、上部団体が総評。新労組は、上部団体が全労であった。 当時、僕に、春日井工場の新労働組合の応援に行ってもらえないかとの要請が、本社新労の幹部からあった。 何分にも昔の事なので記憶違いの事があるかも知れない。当時の関係者の一部の人には見てもらう事にしたいと考えているが、何はともあれ、順序不同で思い出すままに記述する事とした。 昭和33年○月○日僕の自宅( 今、思えば、僕は、その日の午前中に東京の検察庁に呼ばれて事情聴取を受けていた。 それは、当時、何回となく毎朝、我々の出勤時に行っていた王子労組による(応援の総評系の支援労組員も含めて)本社ビル入り口でのピケ隊による出社(本社ビルへの入門阻止)妨害阻止行為に関するもので、被害者の立場からの事情聴取であった。 東京駅では、同じ列車に前田敏雄氏(営業部)、中村成章氏(山林部)と一緒に同乗した。行く目的は、特に告げられず、名古屋駅についたら、名古屋山林事務所の河原林茂さんの指示に従えという事であった。 私自身は、河原林さんは、山林部の人なので知らなかつたが、中村さんが山林部なので知っていたので問題はなかった。 名古屋駅では、ホーム上で、河原林茂さんより名古屋駅では下車せずに、このまま乗り、岐阜駅で降りて、長良川のほとりにある○○旅館に行けという指示。 真夜中に○○旅館に到着。着くと同時に青色の作業帽(我々新労組合員と王労組合員を見分ける為の帽子で、その後、我々が工場構内に入構後は、王子労組員より青帽青帽と言われた。)と脛当てと胸当て(相手から投石された時に膝と胸を防御するためにわざわざ作製した非常に簡単なもの)が配給された。着替えもせずに、指示があるまで仮眠して休んでいろとの事であった。 既に、旅館の大広間には、春日井工場員(新労員)が多数自宅から召集されて集まり、仮眠していた。まるで映画で見た忠臣蔵の47士の討ち入り前のシーンと同じ感がしたのを覚えている。 しばらく仮眠していると夜明け頃、起きろという命令。これから観光バスに乗り、春日井工場に向かうとの事。観光バスには『○○ゴムご一行様』と書いてあったのを記憶している。春日井工場の新労組合員と我々本社の応援組みとが一緒になり。バス2台か3台で春日井工場に向かう。 工場手前の道路上で我々を待機していた瀬古組の幌つきトラック(チップの輸送車)に全員乗り換えさせられた。正門の左側(勝川駅側)で、当時は、一部の社宅があった場所(その後は、王子紙業株式会社の本社事務所)で白い万年塀を乗り越えて、全員、工場構内に入った。かなりの高さがあり、身軽でない者は、塀を乗り越えるのに苦労したのを記憶している。 当日、入構したのは、春日井工場勤務者と本社から応援にいった新労組合員で、全員が、王子製紙労働組合(上部団体は総評)春日井支部か本社支部を脱退して、王子製紙春日井新労働組合(上部団体は全労)か王子製紙本社新労働組合(上部団体は全労)に所属していた。 入構の目的は、一日も早く一部操業を開始し、王労のストライキの出鼻を挫きたいという事であった。我々応援組の本社の新労組合員には、事務系と山林系と技術系がいたが、事務系と山林系は、工場に入らず、外部にいて、情宣活動をする事になっていたそうだが(ストライキ後、聞いた話)、混乱していたせいか、本社から行った全員が、春日井新労員と一緒に工場構内に入ってしまった。 入構後は、事務系、山林系以外の者は、操業再開のため、操業現場に配属された。 当時、管理職は、工場への入出門は、正面入り口より自由に出来たが、組合員は、入門する事も出門する事も一切出来なかった。王子労組の連中が入門をチエックしていたからである。従って、入構した我々は、工場内に篭城して、生活せざるを得なかったのである。 ストライキ中とはいえ、全くの無法地帯となっていたのだ。当時の警察は、組合のストライキ問題に対する対応の経験が浅く、馴れていなかったので、なすすべがなかったと言えよう。 我々の工場構内での居所は、紙の選別をする仕上げ室で、仕上げ台が一人に一台割り当てられた。サイズが丁度手ごろで、夜は、そこに純白ロールを布団代わりに敷いて寝た。体を動かす度に、パリパリという紙の音がしたのを思い出す。 |