昭和33年、王子製紙春日井工場で起きたストライキについて

その3

 

次に、工場構内での篭城中の食事について述べよう。

前述の通り、入構後数日間は、駅弁だったが、その内構内で炊き出しをするようになった。炊き出しは、専門の業者に委託していた。炊き出しの材料は、貨車を利用していた。

 

貨車は全て、工場の北側裏門から工場構内の専用側線を利用して入構していた。

丸太を載せた無蓋貨車と一緒に米をはじめその他の食料品が搬入されてきた。その後、貨車のタンク車で搬入していた薬品の苛性ソーダがピケ隊により、ストップをさせられるようになった。又、貨車で搬入されて来ていた食料品も搬入が出来なくなった。 これも、法的手段の仮処分の申請をすれば、何とかなったのかも知れないのだが。

そこで、食料品は、郵便小包で搬入するようになった。正門の守衛詰め所に郵便車が着いて小包を降ろしているのを良く見た。郵便小包の搬送の妨害は、郵便法では、業務妨害になり、犯罪行為になるので王子労組も手がだせなかったのである。

 

入構後、暫くは床屋に苦労した。当時製品課に勤務していた佐藤久孝さんが事務用のハサミで僕の頭をカットしてくれたのを思い出す。

 

当時、資材課の事務所と倉庫は、事務所とはかなり離れていて裏門の近くにあった。昔陸軍の兵器廠の建物だった。裏手は、工場の外塀になっていた。その高さはかなり高く約4mほどであった。そこにロープが張られており、工場構内と外部との出入りに利用していた。主に工場構内で働く外部の人が利用していた。

 

直ぐ側に、道路が三叉路になっており、そこにピケ小屋が作られていたのだが、ピケの連中を買収して、構内に勤務する外部関係者は、自由に出入りしたようだ。そのずっと先に、鳥居松交番があった。

 

スト入構後、暫くたつた頃には、余裕も出来、工場構内より一歩も出られなかったので、事務所勤務の者は、勤務後は、暇つぶしに資材事務所を尋ねたものだ。当時の資材課長は、杉本二郎氏(子息は、杉本哲郎氏で現在(H17.6.20)王子製紙中国事業推進本部勤務)であった。杉本さんは、我々本社から応援にいった事務系の者を、特に、非常に親切に世話してくれたのを記憶している。今でも、深く感謝している。

 

当初、一緒に入構した本社からの応援者は、全員、王労との話し合いで工場構外に出ることが出来たが、我々、百束悌雄(当時:本社資材課員)、前田敏雄(当時:本社営業課員)、関屋元雄(当時:本社計理課員)の3名は、しばらくの間、工場事務所で仕事をしていた。

 

前述のように、ストライキ中は、管理職は、工場構内への出入りは、正門入り口より自由に出来たが、組合員は、一切出来なかつた。

構内で仕事をしていた外部関係の人達は、前述したように資材倉庫近くにあったピケ小屋の人を買収して出入りしていた。それを手なずけていたのが杉本資材課長(子息が現在王子製紙の中国に勤務:平成17年8月現在)であった。買収には、構内で我々篭城者に配給になっていたタバコだと聞いている。工場から外への出入りは、外塀に取り付けた約4m程のロープを利用して行っていた。

 

工場の入構後、○○日が経過した頃、関屋、百束、前田の3名がいよいよ杉本課長の応援で工場の外に出ることになった。行き先は、名古屋市に住んでいた百束さんの親戚(電通勤務と聞いていたが)の家であった。

杉本課長の指示で深夜に決行した。ロープを伝わり構外に出た。早急に、工場から離れないと相手に捕まる可能性があったので、しゃにむになって逃げた。国鉄中央線の線路を越えて、住宅街に入ると赤い外灯を見つけたのでそこに向かった。着いてみると、そこは鳥居松の交番だった。巡査もいなく、電話器があったのでタクシー会社に電話してタクシーを呼んだ。タクシーに乗り名古屋に向かった。

入構後、すでに数ヶ月が経過していた。

数日後、会社の指示で小牧空港より飛行機を利用して帰社した。 

                   以上

 

文中の関係者

(1)河原林 茂(昭和17年入社)

(2)杉本 二郎(昭和18年入社)

(3)中村 成章(昭和23年入社)

(4)前田 敏雄(昭和24年入社)

(5)百束 悌雄(昭和25年入社)

(6)関屋 元雄(昭和30年入社)

(7)森   健(昭和31年入社)

(8)甘利 敬正(昭和32年入社)

 

投稿者:関屋元雄―王子製紙新労働組合連合会書記長

(昭和38年9月より2年間就任)

株式会社 製紙パレット機構 取締役事務局長 

(昭和62年7月より11年間勤務)

 

* 本文掲載に付き、東京王友会甘利会長、承知済み

 

 

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